『数学セミナー』2015年1月号のある記事について
『数学セミナー』2015年1月号の、浪川幸彦氏による連載記事「学校数学から見える数学の風景」に、以下のような記述がある。(中略は引用者による。なお、下記の「多項式」は実数体上の多項式に限っていることを注意しておく。)
これは「お話し」であるが, 実は高校数学で看過されている問題に通じる. 【引用者注:「看過していること自体はやむを得ないのであるが.」という脚注が付いている。】
それはほかでもない多項式関数についてである. 二つの多項式(中略)が「多項式として等しい」とは, そのすべての係数が等しい, すなわち (I)(中略)の意味である. (中略)「多項式関数として等しい」とは, そのすべての関数値が等しい, すなわち (II)(中略)の意味である. 明らかに (I) (II) であるが, 逆は自明でない.
逆命題の一般次数に対する証明は2種類あるが, いずれも高校数学の範囲を越える.
(中略)
二つ目は離散的な証明で次の命題を示す:「異なるn+1個の点での値を定めれば, それをみたすn次多項式がただ一つ存在する.」
(中略)この「連立方程式の係数行列式」がヴァンデルモンドの行列式にほかならず, 「異なる点」との条件から唯一の解を持つことが導かれる, という仕組みである.
この多項式と多項式関数とにおける「等しい」の意味の同値性は, 理学部数学科においてさえ十分教えられていないのではなかろうか?
上記文中の「逆命題」は、(II) ならば (I)、つまり「二つの(実数体上の1変数)多項式があらゆる点で等しい値をとるならば、両者の係数の各々も互いに等しい」という命題である。
筆者はその高校数学の範囲を越える証明の例として線型代数を用いた証明を挙げているが、この証明で示されている性質「ただ一つ存在する」は「ただ一つ」と「存在する」の二つに分けることができ、今回の「逆命題」に必要な性質は前者の「ただ一つ」の側だけである。一方、ヴァンデルモンド行列を用いたこの証明の主なターゲットは、むしろ後者の「存在する」の側であって、「ただ一つ」の証明にも線型代数が必要であるかのような上記の記述は誤解を招きかねない不適切なものだと考える。
実際、多項式に関する剰余定理の系として得られる命題「零でない(実数係数)n次多項式の零点の個数はn個以下である」から上記の「逆命題」を導くことはたやすい(多項式fとgとの比較を、両者の差f - gと零多項式との比較に帰着させる)。私の記憶では、少なくとも剰余定理は高校で習ったはずであるし、多項式の零点の個数に関する命題の証明も、仮に授業では習わなかったとしても高校生にも充分手の届く範囲であろう。少なくとも、線型代数の知識は全く必要とされない。
さらに、上記文中の最後の箇所
この多項式と多項式関数とにおける「等しい」の意味の同値性は, 理学部数学科においてさえ十分教えられていないのではなかろうか?
に関して、通常の数学科の代数学の講義であれば、例えば「正標数pの素体において、多項式は零多項式ではないがあらゆる点での値が0となる」という典型的な例を通じて、「一般の体上では、「多項式として等しい」と「多項式関数として等しい」は必ずしも等価ではない」ことを学習するであろうし、「では、どのような体の上であれば両者が等価となるか」について考えを巡らせる機会も与えられているだろう。上記の記述はさすがに勇み足ではないだろうか。
位相空間の開集合の性質について一考察
上記のつぶやきとその後の会話を読んで以下のようなことを考えてみた。
用語の定義
まず、通常の意味での位相空間の開集合系を一般化した「χ集合系*1」という(この場限りの)概念を導入する。
- ある集合の部分集合たちに関する集合演算を、ここでは「(有限個または無限個の)集合たちの和集合をとる」「(有限個または無限個の)集合たちの共通部分をとる」「一つの集合の補集合をとる」という演算たちを有限回繰り返して得られるような演算と定義する。
- 集合演算のクラスを一つ定めておく。集合 の部分集合の族がχ集合系であるということを、空集合および全体集合を要素に持つことと、に属する任意の集合演算とに属する任意の入力に対してその演算結果がまたに属すること、という二つの条件によって定義する。
- 例えば、クラスとして「任意個の集合の和集合演算」「有限個の集合の共通部分演算」「補集合演算」を考えると、対応するχ集合系は通常の意味での開集合系となる。
写像の連続性、集合の閉包、コンパクト性、ハウスドルフ性の定義は、「開集合」を「χ集合」に置き換える以外は通常通りとする。例えば、写像が(ここでの意味で)連続であるとは、のχ集合について逆像が常にのχ集合となることを意味する。
直積空間のはなし
命題1として以下の命題「で定義される写像が連続であることと、写像およびがともに連続であることは同値である」について考える。この命題は通常の定義のもとで成立するが、この命題に現れる諸概念の定義において「開集合」を「χ集合」に置き換えるとどうなるだろうか。
まず、直積集合のχ集合系の定義であるが、通常の開集合系を用いた直積位相の定義の同値な言い換え(普遍性による解釈)を用いて、ここでは以下のように定義する。
集合にχ集合系がそれぞれ与えられているとき、直積集合におけるχ集合系を、射影およびがともに連続となるような最小のχ集合系(より正確にはそのようなχ集合系全ての共通部分、これは確かにχ集合系となる)として定義する。「χ集合」を「開集合」に置き換えると通常の直積位相と一致する。
このように置き換えた定義の下でも、命題1は引き続き成り立つ。
実際、命題1の前段から後段が導かれることは、連続写像の合成が連続であること(これも通常と同様の理由で成り立つ)および射影の連続性(そのように「直積位相」を定義したので)よりわかる。
慣れないとややテクニカルなのは後段から前段が導かれることの証明だが、これはと定義したときに、がχ集合系であること(上記性質(*)と、よりわかる)と、任意の(ないし)について(ないし)がに属すること(の連続性よりであり、成分についても同様)からわかる。というのも、これらの性質はが「射影をともに連続とするようなχ集合系」であることを意味するが、はそうしたもののうち最小のものとして定義されているので、、つまり任意のについてが成り立つことになる。
というわけで、命題1は実は開集合系に限らず一般の(有限個の共通部分で閉じているとは限らない)χ集合系の場合にも同様に成り立つ。このことから、この命題は通常の開集合系が持つ「開集合の有限個の共通部分も開集合」という性質を使っているといえるかどうか微妙なように思う。
コンパクト性のはなし
次に、冒頭のつぶやきにあるコンパクト集合についての命題をχ集合系の場合に考える。ただ、この命題の標準的な証明が示しているのは「その集合の閉包が自分自身と一致する」である一方、χ集合系の場合に「閉包が自分自身と一致する集合は閉集合(正確には、その補集合がχ集合)」であるとは限らない。そこで以下では、通常の位相空間の場合には件の命題と同値であるような以下の命題2「ハウスドルフ空間のコンパクト集合の閉包は自身と一致する」について、「開集合」を「χ集合」に置き換えたらどうなるかを考える。
ひとまず、通常の位相空間の場合における標準的な証明を、χ集合系の場合に焼き直してみる。閉包がもとの集合を含むことはこの場合にも自明なので、以下ではの外側の点がの閉包に属さないことを示す。
性質「が互いに交わらないχ集合であり、」を持つ対を全て集めて*2と添字付けすると、のハウスドルフ性よりたちはの被覆をなす。のコンパクト性よりこれは有限な部分被覆を持つ。すると、が添字の各々について成り立つので、、と定めれば、かつ、従ってが成り立つ。
ここまではχ集合系一般について示せることである。あとは、を含むこの集合がχ集合であることを示せさえすれば、がの閉包に属さないことがめでたく証明できる。しかし、これは一般のχ集合系では上手くいかず、件の性質「有限個のχ集合の共通部分もχ集合」が必要となる。
このことから、命題2においては「開集合の有限個の共通部分も開集合」という性質がより本質的であると私には感じられる。
ただ、ひょっとすると別の証明方法なら「開集合の有限個の共通部分も開集合」を使わず証明できるかもしれない。そこで、性質(**)「空集合と全体集合を含み、任意個の要素の和集合もまた要素となる」を持つ(けれども有限個の要素の共通部分は必ずしも要素とならない)ようなχ集合系の選び方で、命題2が成り立たない例を作ってみる。
それにはを2点以上を含む通常の意味でのコンパクトハウスドルフ空間、例えば実数直線上の1点ではない有限閉区間などとし、そこに別の1点を付け加えた集合を考える。そして、そのχ集合系を、かつがの開集合であるような全体と定める。すると、開集合系の定義よりこのχ集合系は(**)を満たす。また、はにおいてもコンパクトであり、が2点以上を含むことからもハウスドルフ性を持つ。しかし、χ集合系の構成よりを含む任意のχ集合はと交わりを持ち、従ってのにおける閉包はの外側の点をも含む。よって、この例では実際に命題2が成り立たないことがわかる。
このことから、命題2を「開集合の有限個の共通部分も開集合」という性質を用いずに証明することはできなさそうである。というわけで、やはり命題2において「開集合の有限個の共通部分も開集合」という性質は本質的であるように思われる。
過ちては則ち改むるに憚ること勿れ
理化学研究所の小保方晴子研究ユニットリーダーの博士論文に対する問題点を調べた早稲田大の調査委員会は17日(引用時省略)「学位取り消しの規定には当てはまらない」とする報告書を公表した。(引用時省略)「論文の審査に重大な欠陥や不備がなければ、小保方氏に博士号が授与されることは到底考えられなかった」と大学の審査体制を厳しく批判したが、小保方氏が博士号を不正に取得したとはいえないと判断した。
http://www.47news.jp/CN/201407/CN2014071701001418.html
この件、どこに抗議すべきか考えている。筋を通さない学問など何の価値もない。
研究業績評価について色々
日本数学会理事会による「数学の研究業績評価についての提言(案)」というPDFファイルが数日前に話題になっていた。異なる研究分野の研究者の業績、特に数学分野と他分野のそれを数値データで単純比較することの問題点を指摘する内容である。
詳細はリンク先を参照していただきたいが、私なりに大まかにまとめると、数学分野に特徴的な傾向として
- 論文数が少ない、そのかわりページ数が多い(ただし短いページ数の名論文も多い)
- 新しく公表された論文が、引用され始めるようになるまでに時間がかかる(研究人口の少なさ、分野の細分化、研究サイクルの長さ、など)
- そのかわり長く引用される傾向にある
- 一方でよい成果ゆえに引用が減ることもある(「誰でも知ってる定理」はもはや文献参照されない、よい教科書ができるとそちらが引用される、など)
- 共著者が少なく、著者順が貢献の度合いを反映しない(アルファベット順)
といった点(他にもあるが割愛)を指摘している。そして、数学者の研究業績の評価においてこれらの特徴を考慮した評価法の導入を提言する内容となっている。
(ただし、これは「案」なので、実際にこれをもとにどのような提言がなされたのか、もしくはなされなかったのかについては私は知らない。)
この文書は「平成14年11月29日」に作成されたもののようだが、10年以上経った現在にも通じる内容であると思う。やや変化したように感じられる点としては現在の方が共著論文の数が増えているように見受けられる(あくまで私個人の印象だが)ことぐらいだろうか。私自身も現在の所属が所属なので、数学と他分野の研究スタイルや業績評価のあり方の違いについては日頃から感じるものがある。こういった認識が他分野の人たちにも広がっていくといいなぁと思う。
件の文書では業績の定量的な評価についても少し触れられている。当時と現在を比べると、研究者の業績の定量的評価についても若干の変化が起きているように感じられる。例えば、研究者の評価指標の代表例であるh-indexなどは比較的最近になってよく用いられるようになってきたように思う。
大まかに述べると、h-indexは各研究者の論文の被引用数を降順に並べたグラフを描き、それと直線y=xとの交点の座標が大きいほど高評価になるという指標である。個人的には中々よくできた指標だとも思うのだが、一方で「論文を共著で書くと純粋に得にしかならない」点に一考の余地があるように思う(恐らく業績評価指標の専門家の間ではこうした問題点が既に議論されているものと期待するが)。
例えば、数学者は、被引用数10をもたらす論文を、10の労力を用いて単著で書いたとする。一方、他分野の研究者は、同じく被引用数10をもたらす論文を、5人の研究グループで合計10の労力を用いて書いたとする。前者は10の労力で被引用数10を得ているのに対して、後者は一人当たり2の労力で著者それぞれが被引用数10を得る結果となる。これはあまりにも単純化した比較だが、著者数の多さによって被引用数の重みが変わってくるというのはある程度一般的な傾向であろう。同じ分野同士であれば1本の論文の著者数もだいたい同じぐらいだからさほど問題にならないかもしれないが、文化の違う分野の研究者同士を比較する際には注意すべきであろう。
さらに、被引用数の取扱いについては、分野間の差異だけではない潜在的問題があるように感じられる。というのも、h-indexのように共著者数を考慮しないで被引用数を業績評価に用いると、ある論文の著者たちが別の誰かを著者に加えることで誰も損をしない状況が発生する(道義的にはともかく、業績評価としては)。
例えば、ある研究室全体の業績評価を高める上で、研究への貢献の有無を問わず全ての研究室メンバーが全ての論文の共著者に加わる、というのが最適戦略になってしまう。所謂ゲストオーサーシップ(実質的に貢献していない人物を著者に加える)の問題事例の報告が増えつつある昨今、そうした問題行為を許さないという意思表示を業績評価の指標選びから始めてみてもよいのではないだろうか。
「大学入試の数学で高校で習っていないことを使うと減点されるか?」問題
大学入試の数学で高校で習っていないことを使うと減点されるか? - Togetterを読んで。
まともな大学教員ならそんなことで直ちに減点などしないだろう*1と思いつつも、受験生の側がまともじゃない採点者に遭遇する懸念を完全に払拭できないだろうということも理解できる。
別の方も言っていたけれども、やはりこの件については大学側が公式見解を出すことが望ましいだろう。大学側が自主的に見解を出すか、例えば日本数学会あたりが会員の教員を通じて見解を出すよう促してくれると楽でよいのだが、もしそうならないようなら有志で各大学に問い合わせることも視野に入れておきたい。
*1: 「直ちに」と付けたのは、凝った定理を使おうとして前提条件の確認を怠って減点される、というパターンが(特にロピタル周りなどで)少なくなさそうだなぁと想像するので