「安心」?「信頼」?

Street viewの話はよく知らないので脇に置きますが、

「安心」と「信頼」は山岸氏の研究でキーとなる概念で、「安心」は、道ゆく人が社会から暗黙の規制を受けていると思うことで、「信頼」とは、規制されてなくても人間というものは普通悪いことはしないと思うこと。

日本人は他人を「信頼」してないけど「安心」している。アメリカ人は「安心」してないけど「信頼」している。

安心社会から信頼社会への移行をグーグルが強制している - アンカテ

私の勝手な思い込みだと、アメリカ人(って一括りにするのも危険かもしれませんが)の心静かな生活はひとえに宗教の威力で維持されているものであって、引用部で言われているような性善説的な「信頼」によるものとは少々趣が異なるように思えるのですが。
もしくは、「普通の人間」であれば自分と価値観(例えば宗教的な)を共有できていて、だから「悪いこと」はしないはず、という無意識の前提の下での「信頼」だというのならまだ話はわかります。でも、それってアメリカ人がそうなのだとしたら日本人だって同じようなものなのでは。


完全に任意の対象を信頼するなんてことは人間業ではなく、対象を信頼するための自分なりの条件というものがあって、それが満たされるとわかったときに初めて対象を信頼するのが人間というものだと思うのですよ。
その条件が限定的であれば、相手を信頼する場面は減りますが、相手が信頼できない相手だと発覚しても拒絶反応は少なくて済みます。一方、その条件が広範に満たされるものであればあるほど、信頼できる相手は増えますが、逆にその条件を満たさない相手に対する拒絶反応は激しくなるでしょう。
果たしてどちらの方がより望ましい状況なのか、それは答えるのが難しい問いだと思います。