「質問できない」人たちへ

卒業研究・修士研究時の悪循環を防ごう - 発声練習で、大学(院)の卒業研究/修士論文研究の最中に学生(院生)が心を病んでしまう一つのプロセスが紹介されているのですが、その中に気になる箇所がありました。

8. 学生は、質問したらこれまでの自分の努力が無駄になるような気がして(あるいは負けたような気がして)質問できない

卒業研究・修士研究時の悪循環を防ごう - 発声練習

これ、確かに実際少なくなさそうな事例だと思いますが、もしこういう理由で先生や先輩に質問できずに苦しんでいる学生さんがいたら、なんて勿体無いことだろう、と思ってしまいます。

質問してもこれまでの自分の努力は無駄になんかならない。もしくは時間は逆走しない

あなたがそれを解こうと努力してきたけれども解けなかった問題について先生や先輩に質問した結果答えが得られたとしたら、問題の答えを得るためにそれまでの自分の努力は何も役立たなかったように確かに見えます。表面的には。
でも、先生や先輩がいくら有益で示唆に富んだコメントをくれたとしても、受け取るあなたの側にそのコメントの本質を理解できるだけの下地がなかったら、どんなに優れたコメントであろうと問題の解決には繋がらないわけです。逆に言えば、先生や先輩のコメントを聞いたあなたが問題の答えに気付いたとしたらそれは即ち、あなたの中にそれだけの下地が出来ていたということに他なりません。ではその下地はどうやって出来たのでしょう?それはひとえに、あなたがそれまで問題を解くために費やしてきた努力の賜物なんです。
その下地は、先生や先輩のコメントを聞いたときだけでなく、そこで気付いた答えを実際に形にする作業(数学であればそのアイデアを証明として明文化する過程ですし、実験系でしたらそれはその仮説を裏付けるための更なる実験かもしれません)においても確実にあなたの力になってくれます。

あなたが「これまでの努力が無駄になる気がして」質問をためらう、そのくらい今までに努力してきたという意識があるのでしたら、なおさらあなたの努力が築きあげてきたあなたの中の力を信じて、堂々と質問すればよいと思います。
時間が逆走するわけではないので、一度の質問が原因であなたの下地がキャンセルされることはありません。それとも、あなたのこれまでの努力はたった一度の質問ごときで無になってしまう程度のものだったのですか?そんなことないですよね、だってあなたは今まであんなに努力してきたんですから。

ちなみに、先生や先輩は神様じゃないので、質問してもいつも的を射たコメントを返してくれるわけではありませんので、もし質問した結果何だかよくわからないコメントが返ってきたと感じた場合、それはあなたの理解力がないせいだとは限りません。多分、先生や先輩もよくわからずにコメントしたんじゃないでしょうか。もしくはコメントの対象を間違えているとか。

質問しても「負け」なんかじゃない。もしくは本当の「負け」って何だろう

「先生や先輩に質問するのは先生や先輩に対する敗北のような気がする」「負けたくない、一人で成し遂げたいから質問はしたくない」という気持ちは私もよくわかりますし、そんな考えは邪念だとばかりに斬って捨てようとは(数年前の私ならともかく、今の私は)思いません。人間はクリーンなエネルギーだけで動いているわけではなく、そういうもやもやでどろどろでぐちゃぐちゃしたエンジンが焼け焦げそうな不純物交じりの燃料であっても、どんどんじゃんじゃん燃焼させて貪欲に前へ進むパワーにすればいいのだと思います。

ただ、エンジンが焼け焦げそうになってまでそういう燃料を投入するのは何のためでしょう。我慢大会?違います。それはあくまで前へ、ゴールへ向かって進むためです。

研究のさなかに先生や先輩へ助言を求めるという行為は、自動車の耐久レースでいえばコース途中で燃料を補給したりタイヤの圧力を調整したりする行為に似ているかもしれません。
今あなたが参加している卒業(修士)研究レースでは、それらの行為はルール上も道義上も何ら問題のない行為です(勿論、先生や先輩にも都合というものがあるので、無制限に行える行為ではありませんが)。確かに燃料の補給無しでレースを完走したらそれはそれで称えられることでしょう。でも、燃料の無補給に固執して完走の可能性を低くするレーサーは果たして優れたレーサーと評価されるでしょうか。私はそんなことはないと思います。
レースにおける第一の目標はきちんと完走すること、卒業研究に置き換えればきちんと成果を出して論文にまとめることです。そのために、ルール上も道義上も問題のない行為であれば貪欲に実行して、少しでも目標達成の可能性を高くすること、それが出来る人が結果的に最も高い評価を受けるのではないでしょうか。

上に述べた通り、私は質問を「負け」と捉えて「負けたくない」と感じる類のプライドは、それがたとえ歪んだプライドであったとしても、単純に斬って捨てればよいものだとは思いません。
でも、そのプライドに固執するあまりにゴールに辿り着けなかったら、それが本当の「負け」なのだと思います。何が本当のゴールなのか、何が本当の「負け」なのか、それだけは間違えないようにしてほしいなと思います。