「話し方が論理的かどうか」は単に型の問題であって、中身は関係ないのでは

話し方が論理的だからと言って、話していることが正しいわけではないという記事を読んで。
元記事の方の言いたいことが集約されているであろうタイトル自体には私も賛同します。ですが、本文中で、話し方が論理的かどうかという観点が内容の真偽と結び付けられているのがちょっと気になりました。
例えば以下の箇所。

論理的な話し方の場合、聞き手は「話の展開i」から「話の展開(i+1)」へ話が進む理由が理解できているので、そこに不明な点や不可解な点があればすぐに指摘できる。その結果、聞き手は話し手が話している内容の真偽を容易に判断できる。

http://d.hatena.ne.jp/next49/20090629/p1

この書き方ですと、話し手の話し方が論理的であれば、普通は聞き手が内容の真偽を容易に判断できるということになると思うのですが、私はそう単純な問題でもないと思います。


私は、人がある人(自分自身を含む)の話し方について論理的かどうか判断する際、大抵の場合単にその話し方が「論理的な話し方」の「型」に当てはまっているかどうかだけを見ていて、内容についての吟味は殆どなされていないのだろうと思います。

例えば、先日の記事で紹介した「全ての数は5に等しい」という(誤った)命題の(誤った)証明について、数学にあまり強くない方に口頭で説明したとすると、きっと相手は「論理的な説明の仕方」と感じると思うのですよ。勿論結論は間違っていますし、特に「その2」の方であればどこでどう間違ったか認識するのも恐らく難しいにもかかわらず。
これは立場を変えて私が「あまり強くない人」になった場合も同じで、例えば/.Jあたりには私がそれほど詳しくない話題についての「論理的な」コメントが多いのですが、それを読んで「へぇ〜、そうなんだ」と感心しつつそのコメントへの返信を見てみるとそこで元コメントが綺麗に論破されていてずっこける、ということもよくあります。

別の切り口としては、先日ちょうど職場で「論理的な話し方」についての研修を受けたばかりなのですが、そこでは話の整理の仕方といった「型」に類する要素が重視されていた一方、論理的な思考法など「話の内容の真偽」に関連する指導はありませんでした。それでも「『論理的な話し方』について指導された」と感じられるのですから、やはり話し方が論理的かどうかに内容の真偽は関係ないのではないかと思うのです。


であるならばいっそのこと、「話し方が論理的であるかどうかは単に話のスタイルの問題であって、内容の真偽とは関係ありません」「話し方が論理的であるからといって、真偽の確認が簡単になるわけではありません」と言ってしまった方が、一見論理的に聞こえるけれどもアブナイ話に騙されてしまう人が少なくてすむのではないかなぁと思います。
宿題のレポートが指定の書式通りであるかどうかとレポートの中身がまともかどうかには何の関係も無いわけですし。


なお、

  1. 話の前提か仮定が正しくないとき
  2. 話の展開が正しくないとき

以上のどちらかを満たしている時はもちろん結論は正しくない。

http://d.hatena.ne.jp/next49/20090629/p1

という箇所について、「結論は正しくない」というのは勇み足で、「結論が正しいとは保証できない」ぐらいが穏当な表現ではないかと思います。
「正しい」と「正しいと保証されている」は同じ状態ではないわけですし。