「将棋界がgenerativeであり続ける理由」へのコメントへの返信への返信

id:essaさんの記事「世間」を破壊した事例としての羽生世代 - アンカテで、以前書いたコメントへの返信を頂きました。ありがとうございます。
というわけで、その件について書きます。


元記事の要旨は、「羽生世代は将棋界の中で「ソシオロジー」の変革を成し遂げたが、これは稀有な例であって、日本の他分野、例えば同じような頭脳ゲーム的分野である数学や物理等の分野では果たして同じようにいくだろうか」という内容と私は読み取りました。ここが致命的に間違っていたとすると以下の文章がどうしようもなくなるのですが、とりあえずここは大丈夫として話を進めます。
で、この将棋界で起きた事例をどう捉えるかについてですが、元記事のブックマークコメントの

ageha0 『「将棋の強さはあくまで将棋の中で決まり、人格や人生経験とは関係無い」という新しい将棋観』が認められたのは勝ち負けが明白なセカイだから。他の「世間」でも『勝敗基準を明確化』してやれば同じになるのでわ。

http://b.hatena.ne.jp/ageha0/20080731#bookmark-9497271

というのが非常に参考になると思います。


将棋界の大きな特徴の一つは、「勝ち負け」、即ち二人の見解のどちらがより正しいかに対する明確な基準が存在することですが、それ以外の重要な特徴として、その世界の専門家が目指すべき方向性というか、主軸となるべきテーマが明確に定まっていて、かつ限定的であることが挙げられます。
詳しく述べると、将棋界の棋士にとっての究極の目標は「将棋に対する理解を極めること」と言えます*1が、その目標へ向かうためのテーマの種類は実はそれほど多くないように思えます。将棋の一局は大別すると序盤、中盤、終盤に分割でき、将棋を理解する試みも「序盤を理解する」「中盤を理解する」「終盤を理解する」の三種類、もしくはその組合せで表現できると考えられます。勿論、より細かく捉えれば、どの戦型を選択するか、攻め重視か守り重視か、光のような即詰みを目指すか鉄板のように手堅く勝つか、といった嗜好の違いは生じますが、大きな分野としては序盤、中盤、終盤に限られており、どの分野も将棋界において既に「重要なもの」としての認識が確立されています。従って、序盤にせよ中盤にせよ終盤にせよ、そのテーマを選択したこと自体が非難されるとか理解されないといった反応が起こらないのは尤もなことです。


一方、元記事で例示されている物理学の世界についても、直接対局することはないにせよ科学である以上は「主張の正しさ」についてのかなり客観的な基準は存在するはずですし、「物理現象の法則を理解する」という究極の目標も物理学者全員が共有していることでしょう。
しかし、一言に物理現象といっても、素粒子規模から宇宙規模に至るまでその範囲は極めて広大ですから、必然的に研究テーマや研究分野の種類も多くなりますし、また比較的新しい研究分野である元記事でも言及されたストリング理論のように新たな研究分野が生じることも起こり得ます。そして、新しい分野であれば当然、その分野の重要性に対して全物理学者による合意が形成済みということもありません。人材や時間、資金といったリソースは有限ですから、研究分野の選択が必要となるわけですが、上述した「主張の正しさ」とは異なり、「研究分野の適切さ」に対する客観的な基準などというものも存在しません。
そこに、元記事の言うところの「ソシオロジー」が入り込む余地があるのだと思います。


さて、id:MarriageTheoremは数学者なので「数学や物理等の分野で」という元記事の記述に反応したくなる*2わけですが、数学の世界は果たして将棋界寄りなのでしょうか、物理学の世界寄りなのでしょうか。
数学者に共通する究極の目標は、平たく言えば「(数学的)真理を見出し、証明し、理解する」ことです。数学の世界も物理学に負けず劣らず広大ですので、数学における研究分野も膨大な数存在しますし、新たな研究分野の開拓も日々行われています。ここまでは物理学の世界と似たようなものです。
で、ここからが数学の世界の特殊事情と思うのですが、数学の世界ではいかなる研究分野であれ、対象が数学である限りはある一定の価値が認められています*3。勿論数学者だって人間ですから、「今は○○分野が流行りだ」とか「××分野は個人的に好きじゃない、△△分野の方が美しいと思う」といった意見を持ったりもしますが、それでも「全ての分野が将来的な可能性を秘めている」ことは皆心の奥底で感じています。数学の全ての分野は潜在的に互いに関連していて、例えば誰かが世界の片隅でひっそりと証明したささやかな定理が、10年後や100年後にリーマン予想やP vs NP問題の解決の決め手となる可能性も否定できないのです。
数学者であるid:MarriageTheoremの贔屓目も入っているとは思いますが、「可能性の無いことが証明されない限り、可能性を否定しない」のが数学者のメンタリティであり、研究分野の選択に際し個人の感性を尊重する大らかさは数学者の誇るべき美徳と思います*4。そして、主張の正しさに対する客観的基準という意味でも、「数学的に正しく証明できるか否か」という確かな基準があり、能力さえ伴っていれば、ペーペーの学部生や大学院生が歴史的発見で名を残す*5ことも、大御所の数学者の証明に意義を唱える(勿論、その証明に誤りがあるという前提でですが)こともできるのです。それが「ソシオロジー」によって邪魔されることもないでしょうし、むしろそのような行為を肯定する雰囲気こそが数学の世界の「ソシオロジー」であるといえるのかもしれません。


長くなりましたが私の見解としては、将棋界における羽生世代の活躍や功績については疑う余地がないものの、「ソシオロジー」の変革云々という文脈で言えば、ある意味で元々将棋界には変革すべき「ソシオロジー」がなかった(もしくは希薄だった)のではないかなあ、と思いますし、その意味では数学界の状況も似たようなものだろうと考えています。


というか、id:essaさんの言われる「大天才」が日本の数学界に現れたとして、そんな面白いことをたくさん見せてくれそうな人材を数学者が見つけたら、何とかして手元に置いておいて、一緒に研究するなり、見て楽しむなり、泳がせておいて出てきた成果を研究所のアピールに役立てるなりしようと思うものなんじゃないかなぁと思うわけですよ。少なくとも私ならそうしますし、私の知っている数学者の殆どは似たような反応を示すんじゃないでしょうか。
まあ、現実的な予想としては、国内なら京大の数理解析研究所あたりに落ち着くんじゃないでしょうか。あそこなら一般の学生を教えなくてもよいはずなので、頭の程度が違いすぎて学生が講義を理解不能、とかいう問題もなさそうですし*6

*1:羽生善治氏の「もし将棋の神様と対局したら〜」という発言や、将棋でなく囲碁漫画からの引用ですが「神の一手を極める」という台詞などはその価値観の表れと思います

*2:そもそも「数学」が入っていたから元々のコメントを書きました

*3:この「一定の価値」が「就職先に必ずありつける」とか「研究費が必ずもらえる」だったら数学者は皆ハッピーなのですが、そこまで虫の良い話ではありません

*4:私のいた研究室でも皆てんでばらばらの研究してましたしねぇ・・・

*5:2002年に発表された世界初の多項式時間素数判定アルゴリズムの著者3人のうち二人は学生だったそうな

*6:数解研の院生はそれはそれで普通じゃないからきっと何とかなるでしょう