技芸とかヒエラルキーとか

「技芸」に関してとんでもない誤解をされている… - くるるの数学ノートを読んで。私も件の記事のどこをどう読んだらヒエラルキー云々という話になるのか皆目見当つきませんがそれはさておき。

技芸の話

全体的に元記事に同意ですが、特に

数学自体は論理的であっても、それを解明し理解するほうの人間は論理的でない部分も多々ある

「技芸」に関してとんでもない誤解をされている… - くるるの数学ノート

という部分は極めて的を射た言葉だと思います。
この場合の「論理的でない」というのは、ちゃんとしていないという否定的な意味合いではなく、論理を超越した何らかの能力を持っているというような肯定的な意味合いです。自分は院生時代に、ある(師匠の専門とは別の)テーマでこういうことを調べたい、といった希望を師匠に述べたところ、直ちに「それはあまり上手くいきそうにないから、熱心にやらない方がいいんじゃないか」(←意訳)という具合にコメントされたことがあります。当時の私は、証明云々を超越した数学に対する直観というものをあまり信じてはいなかったので、「上手くいくかどうかなんてやってみなければわからないじゃないか」と感じたものですが、今になってみるとそれはあまり良い感想ではなかったなぁと思います。
勿論、数学的命題の真偽は適切な(肯定的または否定的な)証明を示すことで初めて客観的に判定されます。しかし、公理系を一つ定めた時点である命題が論理的に証明可能かどうかは一意に定まるわけですから、一意に定まっているその事実を何らかの(論理学を超越した)方法で見通すことができたとしても論理的に矛盾はないわけです。そのような、ある命題の真偽を証明抜きで見通す力、というのも数学における重要な技芸と言えるのではないでしょうか。

あと、ある命題の証明が数学的に正しいことを技術的に確認するだけでなく、その命題が何故成り立つのかという本質的な理由を理解する能力というのもとても重要な技芸だと思います。この点についても、師匠はセミナーでその命題が成り立つ本質的な理由を色々語ってくれていた(か、少なくとも本質的な理由を追求する姿勢を見せてくれていた)のに、証明技法という技術的な面に捉われすぎていた当時の私はそのありがたみをあまり感じておらず、今考えるとなんて勿体無いことだろうかと思う次第です。

ヒエラルキーの話

ヒエラルキー云々については、むしろ数学という分野が研究分野の中で特殊な存在である気がします。今の私の職場は比較的数学に近いけれども数学とは異なる分野の研究所ですが、周囲の方々を見ていると、師匠に対して数学の人間が遣うのとはまた違った気の遣い方をしているなあと感じることがしばしばあります。
それに、Erdos numberとかshisyo(師匠)number(Terada numberを参照)みたいな遊びが数学の人間に受け入れられるのも、それだけ数学において共著論文が珍しい存在だからですよね。周りの分野だと、博士論文を書く段階で既に師匠との共著があるのが当然、というか院生は師匠を共著者に入れるのが普通、みたいな雰囲気があるように思われますし。一方数学だと、例えば仲の良い数学者諸氏と飲みに行ったとき、揃いも揃って師匠と全然違う研究で博士論文を書いた連中ばかりだったり、師匠の研究分野を継いだ人が珍しがられる始末なわけで(これはこれで私の周囲が特殊なのかもしれませんが)。

というわけで、研究者になりたいけれどもヒエラルキー云々みたいな面倒臭さは嫌だという方は、是非数学者を目指しましょう。数学でもそういう面倒臭さが生じる場面が無いとは流石に言いませんが、かなり可能性を下げることはできるかと思います。