大地は水は嘘をつかないが、人は解釈で嘘をつく

「人間は嘘をつくが、大地は水は嘘をつかない」 - 地を這う難破船の話。「お断りしておくと、長くなりました。申し訳ありません。」と冒頭に断り書きがしてあったのを見て、「ブログで『長い』といっても高が知れているだろう」と思いつつ読んでいったら本当に無茶苦茶長かったのでびっくりしたとかしなかったとかいうのはまた別の話なので脇に置いておくとして。

元記事の方が挙げておられる「大地や水に嘘はつけない」と「大地や水は嘘をつかない」という二つの言明は、確かに論理的に一方から他方が導ける関係にはありませんので、前者を信じるが故に後者をも信じる、というのは少なくとも論理的には正しい態度であるとはいえないでしょう。
ただ、

私たちは、私たちが「人に対して嘘をつくことができる」ことを嫌というほど知るがゆえに、そして「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」ことを嫌というほど知るがゆえに、転倒して、「大地は嘘をつかない」と誤解します。あるいは「水は――」。


嘘は地べたから撥ね返ってくるがゆえに私たちが大地に向かってはどうしても嘘がつけないことと、大地は嘘をつかないと考えることは、決定的に違います。――まして「人間は嘘をつくが、大地は水は嘘をつかない」と考えることは。にもかかわらず「人間は嘘をつくが、大地は水は嘘をつかない」という正解を、真理として提示する詐欺が、あるいは本気でそのように他に説明する発想があります。
(中略)
それは「人間は嘘をつくが、大地は水は嘘をつかない」という結論ありきの結論にはまったく反転しませんし、その結論ありきの結論を「正解」として提示することを真理と言います。それが擬似科学です。

という部分からは、元記事の方が「人間は嘘をつくが、大地は水は嘘をつかない」という考え自体に警鐘を鳴らしているようにも受け取れてしまうのですが、それは元記事の方の本意なのでしょうか。

「嘘」の定義が私の想像と異なるのかもしれませんが、私は、「大地や水の振る舞いは全て真理である」という言明自体はそんなに問題のあるものとは思いません。むしろ、それはまさに自然科学における「真理」の定義そのものであって、自然科学という学問は人間の叡智によっていかにその「真理」の姿を明らかにするか、という探求だと思います。


問題は、大地や水の振る舞いは真理であっても、その振る舞いを観測し、解釈する側の人間が(意図的かそうでないかはともかく)嘘をつき得るという点でしょう。


よく引き合いに出される「水からの伝言」を例に挙げますと、

  • 容器Aには水が入っており、「好き」と書かれた紙が貼ってあった
  • 容器Bには水が入っており、「嫌い」と書かれた紙が貼ってあった
  • 容器AとBを冷凍庫に入れると、Aには綺麗な結晶ができ、Bには汚い結晶ができた

という現象(「綺麗」や「汚い」の定義は何なんだ、とか別のツッコミどころもあるわけですが今は目をつぶって)が仮に観測されたとしたら、いいですか仮にですよ、仮に観測されたのだとしたら、「Aに綺麗な結晶ができ、Bには汚い結晶ができた」こと自体は真理と言ってよいでしょう*1。だって実際にできちゃったんだから仕方が無い。
でも、だからといってその観測結果から直ちに「結晶の綺麗さの違いは、『好き』はポジティブな言葉で『嫌い』はネガティブな言葉という点に由来する」と結論してしまうのは「嘘」です。
紙に書かれた言葉以外にも容器Aと容器Bの相違点の候補は色々あります(10秒ほど考えただけでも、水を入れてから冷凍庫に移すまでのタイミングの違いや容器を置く場所の違い、という点が思いつきますし、じっくり考えれば他にもあるでしょう)ので、「結晶の綺麗さの違いが、書かれた言葉の違い以外の要因から生じたものではない」ことがわかって初めて「結晶の綺麗さの違いは、紙に書かれた言葉の違いに由来する」という解釈が妥当なものとなるわけです。


自然現象は嘘をつかない。ただし、その振る舞いを観測し、解釈する人間は嘘をつく。


だから、「水からの伝言」のような自然現象の「要因」に関する新説を聞いたら、その説を語っている人間の側が嘘(意図的につく嘘も、誤解による無意識の嘘も含めて)をついていないか注意する必要がある、というのが私の意見です。

*1:しつこいぐらい注意しますが、「もし仮にそのような現象が本当に観測されたのだとしたら」ですよ。科学的な態度としては、本文で述べている「解釈による嘘」以外に、そもそも観測方法や観測精度がどの程度信頼に足るものかをまず疑う必要があります。