妻をめとらば

もう3年ほど前になります。
当時、博士論文を書き上げ指導教員の先生からもまずまずの評価を得て、博士課程修了見込みとなった私は次年度からの身の振り方について真剣に悩んでおりました。


選択肢は以下の二つ。

  • 研究員(詳しい方向けに書きますと、COE研究員)として当時在籍していた大学で引き続き数学の研究をする
  • 某研究所(現在の勤務先)で、ポスドクとして情報セキュリティの研究をする

前者の魅力は、それまで同様に純粋数学の研究を慣れ親しんだ環境で続けられるということでしたが、当時既に結婚していた妻と私二人分の生活を賄うには大学側から提示された給与が充分でなく(というか私一人分でもきつかった)、その道を選ぶには非常勤講師などでかなりの量のアルバイトを掛け持ちする必要がありました。
一方、後者は研究室の某先輩から勧誘を受けていた話で、先輩の話しぶりからそれなりの報酬をもらえるような雰囲気を感じていました(詳しい額はわかりませんでしたが)。しかし、当時の私はその研究所の名前は知っていても実情は殆ど知らず、また「情報セキュリティ」という分野についての知識不足も手伝ってか、


「もしそこへ行ったら一体どんな研究をさせられるのだろう」
「そこへ行ったら自分はもう数学らしい研究は一生できなくなるのではないか」


と不安に苛まれて仕方がありませんでした。


と、そんな私の悩みっぷりを見かねた妻がやってきて曰く、「私はその研究所に行くことを勧めます。」
それはどうして?と尋ねたところ、答えて曰く、


「今、数学の業界って大変らしいじゃないですか?数学の研究の職が少ないだけじゃなくて、数学科の数自体が減りつつあるって貴方も以前話してたでしょう。
貴方と付き合ってから、数学という学問は100年後、200年後の世界のためにとても役立つものなんだって感じるようになったけど、それだけじゃ今の厳しい状況で生き残っていけないんじゃないかって思うんですよ。
数学は、100年後や200年後に役立つだけじゃなく、もっと近い未来にも役立つものなんですよ、数学は数学だけで独立してるわけじゃなく、周りの分野のために役立つこともできる、ということを示さなくちゃいけないんじゃないでしょうか。それをするためには、その研究所ってとても適したところのように思います。
貴方がその研究所で、数学を役立てて良い成果をばんばん挙げて、もしいずれどこかの大学の数学科に戻ったとき、もしその数学科が潰されそうになったら、その研究所での経験を示して『数学はこんな風にとても役立つものなんですよ、潰すなんてとんでもない!』って堂々と主張できるじゃないですか。
そうやって数学を研究する場を守ることができれば、貴方にとってだけじゃなく、貴方の周りの仲間の人たちにとっても大きなプラスになるし、数学を役立てる対象の世の中の人たちのためにもなるでしょう?」


た、確かにそれは言う通りだと思うけれども・・・と考えていると、更に妻から。


「それに、今の大学に残ろうと思ったら、色々な仕事を掛け持ちしなくちゃいけないんでしょ?貴方、そうやって色々なことを同時にこなすのって苦手じゃないですか。
だったらその研究所に行って、仮に平日は数学と関係ない仕事だったとしても、それでちゃんとしたお給料もらえれば、土日に数学の研究することもできるんですし。その方が向いてると思いますよ。」


・・・う〜む、流石、よくわかってらっしゃる・・・
それにその前に言っていたことも言われてみれば尤もなことばかりだしなぁ・・・
と、だんだん某研究所行きに傾きつつある私の心にトドメの一言。


「貴方には、そのくらい大きな目標を持っていて欲しいです。私の夫なんですから♪」


かくして、妻の冷静かつ熱心な意見に後押しされ、私は某研究所を選んで情報セキュリティの世界に跳び込むことを決意したのでした。


それからの3年間を振り返ってみれば、いや振り返るまでも無く、このときの妻の「演説」は大ファインプレイだったとしみじみ感じます。
結局、私が当初想像していたよりも遥かに「数学くさい」研究もできていますし。
私の性格だけでなく、(文系で数学とは縁遠い分野にいたにも関わらず)数学業界の現状や今後の展望などにまで私自身よりも(←いや、それはいかがなものかと自分でも思いますが)よく考えをめぐらせていて、しかも私がそれだけの大きな仕事を成し遂げられるものと固く信じてくれている!
これだけの期待に応えないわけにはいきませんよね、夫として。


今自分がこうして数学者としていられるのは、間違いなく妻のおかげです。


2008年最後の夜に、ありったけの感謝の気持ちを込めて。

ベートーヴェン:交響曲第9番

ベートーヴェン:交響曲第9番


(追記(2009.1.1):「私はあんなしゃべり方しません!」とツッコミが入ったので少し直しました。)