「日本語か英語のどちらでもよい」でいいじゃない

大学院での教育を日本語で行うか英語で行うか、という話。

上の記事を読むと、どうも「原則として日本語」か「原則として英語」の二択みたいな話の展開になっているように思えてしまうのですが、別にどちらか一方に限る必要はなくて、講義を行う先生ごとに日本語で講義するか英語で講義するか自由に選べるようにしたらいいんじゃないでしょうか。

僕個人の考えを言えば、「別に日本でも高等教育は英語で行えばいいじゃないか」というところかと。理由は簡単で、

  1. そもそも大半の基礎科学研究は国際レベルで展開されているものだから、基礎的な知識は英語を介して身につけた方が後になって日本語&英語の対訳を覚えるよりも効率的
  2. 既に日本ではアカデミアが飽和に達していて研究者の海外逃亡が見込まれる状況なのだから、予め英語だけで研究活動ができる程度の訓練を受けておくことは有益
  3. 海外から優秀な研究者を招聘する際にわざわざ日本語の習得を義務付ける必要がなくなる
http://www.mumumu.org/~viking/blog-wp/?p=2609

(強調は原文のまま)
講義ごとに日本語/英語を自由に選べるようにしておけば、少なくとも上の3.は解決ですよね。


私個人の意見としては、たとえ大学院であっても英語での講義を義務付けることには反対です。(上で書いたように選択式にすることにはまあまあ賛成ですが。)
平たく言うとデメリットが大きいわりにメリットが感じられないからなんですが、メリットについては後で述べるとして、まずは私の考えるデメリットについて書きます。


まず、「英語ができないと大学院に進めない(進んでも講義を充分に理解できない)」という状況は、研究者を目指す一部の人間にとって超えがたい高いハードルとなります。(元記事のvikingさんはそのハードルを「心理的プレッシャーによって腰掛けで大学院に進もうとする輩を排除できる可能性」としても期待しておられるようですが、そんなスクリーニングは別の方法で行えばよい話だと思います。)
私は数学の人間なので数学分野の話をしますが、数学における研究成果の少なくない部分は、論文を読んでいて「こんなアイデア普通思いつかねーよ」と呟いてしまうような、その人でなければ到達できなかった(もしくは、代わりの人が現れるまで数十年単位の時間を必要とした)であろう独創的なアイデアに基づいています。
イデア以外の要素でも、例えば常軌を逸した質(理解度)と量の予備知識に支えられた研究とか、発狂しそうなほど長くて入り組んだ計算の末に導かれた定理とか、要は「こりゃこの人にしかできない研究だな」と思わされる研究成果がそこかしこに転がっているのが数学研究の世界です。
で、そんな「この人にしかできない」の「この人」になり得る能力を秘めた人材が、英語ができないなどという数学の本質とは全く関係のない理由で研究者の道へ進むチャンスを失ったとしたら、それは数学という分野にとって実に悲しむべきことだと私は思います。


また、現時点で私やid:next49さん(失礼)やvikingさんの記事続編に登場した困った講演者のように「英語:E(超ニガテ)」な研究者が既に相当数存在する状況で講義での英語使用を必須なんかにしたら、そういう人達のする講義の質はまず間違いなく日本語での場合に比べて(理解のしやすさという点で)格段に落ちますよね。そんな講義を受けさせられる学生の側もたまったものではないと思うのですよ。
(念のため:「英語がニガテ」という弱点のツケを研究者本人が支払わされるのは止むを得ないけれども、学生を巻き添えにするのはまずいだろう、という話です。)


で、じゃあ「メリット」として上記引用部に挙げられている点(3.は既に触れましたので1.と2.)についてはどうなのかと考えますと、
(引用部を再掲)

  1. そもそも大半の基礎科学研究は国際レベルで展開されているものだから、基礎的な知識は英語を介して身につけた方が後になって日本語&英語の対訳を覚えるよりも効率的
  2. 既に日本ではアカデミアが飽和に達していて研究者の海外逃亡が見込まれる状況なのだから、予め英語だけで研究活動ができる程度の訓練を受けておくことは有益

1.については、基礎的な専門用語の英語表現を知っておくこと自体は確かに有益だと思いますが、それは日本語で講義をしつつ専門用語については英訳を併記するとか、話すのは日本語でするけれども板書は英語(私が学生の頃はそういう先生が結構いました)、といった現行方式の延長で充分に対応できる話だと思います。


2.については、そもそも疑問なのですが、「日本語で研究ができる能力」と「普通(研究以外)の英語の能力」を両方備えていれば英語での研究には特に困らないんじゃないでしょうか。とすると、2.の対象となっているのは「普通の英語の能力」をそもそも充分に備えていない研究者(のタマゴ)ということになると思うのですが、そんな人が英語をできるようになる方法として「英語での講義」というのは本当に効果的なものなのでしょうか。
それより、講義なり別の何らかの方法なりで、英語そのものを直接学ぶ機会を別途設けた方がずっと効果的なのではないかと思います。


というわけで、vikingさんが「メリット」として挙げておられる点は、それ自体は重要な点だと思いますが、英語での講義を必須にすることで実現できる/すべきことではないのではないでしょうか。