『数学セミナー』2009年10月号

数学セミナー 2009年 10月号 [雑誌]

数学セミナー 2009年 10月号 [雑誌]

自分と同世代の良く知っている数学者が4人も原稿を書いている号というのは記憶にありません。多いですね。皆さんご健勝で何よりです。


今月の「aperitif」*1九州大学の梶原先生)の文章より。(一部抜粋)

「美しくなければ数学ではない」. 恐ろしい排除の論理だと思う. 例えば現実の泥沼をあらゆる手練手管を用いて押さえ込み数理で統制が取れるようにしたり, 切実な現実問題に対して限られた資源と時間の中で実行可能な解答を模索することは, きっと美しくない. それは数学ではないのか. 数学では直ちに役に立たないことを大事にしなければならないのは事実である. だがなぜ「役立っていることは恥ずかしい」などと居丈高に開き直る必要があるのか.
(中略)
僕は, 数学は高貴なものも俗なものも含む奥深いものだと思う. 神を見るような芸術にもつながる数学も, 目先のことだが切実な問題の解決の手段, 言ってみれば業務としての数学も, みな数学だ. 天才でも凡人でも, 自分の個性と努力と運に応じて何かしら創造したり用いたりできる. 美しさなんて, 数学の一側面にすぎないのではないか.

「数学は高貴なものも俗なものも含む奥深いもの」という視点には賛同しますし、とても重要な視点だと思います。
数学という学問は、一般の方々からは芸術もしくはパズル、大げさに言うと知的(精神的)文化という「高貴な」面での貢献が期待されている(ように見える)一方で、産業界からは工学の発展という「俗な」面での貢献が期待されている(ように見える)という、中々に微妙な立場にあります。その相反するようにも見える二つの視点での期待に応えるためには、数学界としてそれぞれの視点での数学に長けた人材を養成する必要があるわけですが、日本の数学者は全体的な傾向として(少なくとも数年前の段階では)やや「高貴な数学」の視点に偏りすぎなのではないかなと感じています。その象徴が、文中にも紹介されている「美しくなければ数学ではない」「役立っていることは恥ずかしい」といった言葉でしょう。


勿論、逆にみんなが「俗な数学」にばかり興味を示すようになってしまったらそれはそれでつまらないですし、「美しくなければ・・・」という主義のとんがった数学者もいた方がとんがった研究が出現して面白いと思いますので、どちらかにだけ偏るのではなく全体として上手くバランスを取るのがよいと思います。ただ、少なくとも各人が「高貴な数学」と「俗な数学」という二つの視点を認めた上で(どちらにどれだけパラメータを割り振るかは各人の好みになりますが)、それぞれの研究を進めていくのが大切なのではないかと思います。


最後に、文中で一番面白かった箇所をご紹介。

美にとらわれると他の価値が醜く嫌悪すべきものに見えるのかも知れない. だが, 少なくとも「美しくなければ数学ではない」という言葉は全然美しくない.

*1:`e'には本当はアクセント記号が付くのですが、入力の仕方がわからないので省略