数学の発展の妨げとなる如何ともし難い要因

それは極めて単純明快、数学の理論に果ては無くとも、数学をやる人間の側には寿命が存在するということです。


いや、寿命などという数十年単位のものを持ち出すまでも無く、現在の教育システムを考えれば、一般教養レベルの数学を学び終えた学部3年終了時辺り*1に自分の専門にしたい分野の習得を開始してから、ささやかながらもオリジナルの研究結果を修士論文にまとめるまで約3年*2の間に、学生は曲がりなりにもその分野の先頭集団の知識に追いつかなければならないわけです。勿論、追いついただけでは不充分で、追いついた上で新たなアイデアが求められるわけですが、追いつくことが必要条件ではあるわけです。
で、自分が学生の頃に、数論やら代数幾何やらを専攻している友人、その友人は私から見ると信じ難いほど幅広い分野に(勿論専門である数論や代数幾何自体にも)精通している超人なのですが、その友人がそれでも不足とばかりに本や論文を読みまくっている姿を見て、「こういう人ですら3年で先頭集団に追いつけないほど数論や代数幾何が発展してしまったら、その分野の次代の研究は誰が担うのだろう」と心配になったものです。ということを学術雑誌とページ増加-で、実際どのくらい増えているのさ?- - かたつむりは電子図書館の夢をみるかに対するid:armchair_theoryさんのブックマークコメント

毎年これだけ増える論文を踏まえて研究しなければならない。100年後には、というか今もそうだけど、文献の山を登っているうちに一生が終わるのではなかろうか。あるいは読みが浅くなるか。

を読んで思い出しました。
なお、私はというと、超人的な知識量が必須となる分野は性に合わないという思いもあって比較的穏便な分野を選んだ*3のですが、それはまた別の話。


ちなみに、私の現在の生息地である情報セキュリティの分野でも、人間の能力の有限性に起因する似たような問題が起こりつつあるようです。
といってもこちらは初学者の修行時間が足りないという話ではなく、近年の暗号分野の研究成果(特に新しく提案される暗号プロトコルの仕組みやその安全性証明)が複雑になりすぎて、論文の査読が非常に難しくなっているということのようです。そのため、暗号プロトコルの安全性を機械的に証明するための形式手法や自動証明の分野、また暗号プロトコルカプセル化に良く適合するuniversal composabilityという安全性要件の理論が近年脚光を浴びています(といっても私はそっち方面には詳しくないので、識者の方のツッコミなど歓迎します)。
数学者から見ると、査読の難しさに関しては数学の論文の方が洒落にならない状態だと思わなくもないのですが、情報セキュリティ分野は現実の脅威に対処しなければならない都合上数学ほど査読に時間を掛けられない事情もあって、より事態が深刻になっているのでしょうね。


そんなわけで、前述のコメント主さんの懸念はある意味で数学や情報セキュリティの分野において現実になりつつある、というのが私の個人的な見解です。


それにしても、情報セキュリティの件についてはコンピュータの利用で問題を解決(もしくは先送り)できたとしても、数学については一体どうしたものでしょうね。論文をコンピュータで効率的に整理収集できるようになっても、新たな成果を生み出すために論文のアイデアを「理解する」という作業はコンピュータ任せにするわけにはいかないでしょうし。

*1:ここでの「一般教養」はいわゆる一般教養よりちょっと進んで、「数学者なら」みんな聞き覚えがあるような内容、という意味

*2:仮に修士論文ではお茶を濁したとしても、博士論文ではそうはいかないので倍にしか伸びない

*3:同じ分野の研究者諸氏の名誉のため一応言っておきますと、穏便ということは簡単であることを意味しません。平面幾何の定理をたくさん知っていても、問題図に正しく補助線を引けるとは限らないのと似たようなものです