大学の数学科と「実践的教育」

先日の記事(大学で実践的教育?無茶ですよ。)に頂いたikさんのコメントにお返事してみます。
(以下、コメントの抜粋)

即戦力というのは字義通りに捉えるよりも
確率論専攻者が金融に高待遇で就職するとか、そういう感じのことじゃないですか。教育する際に最も時間のかかる部分は身につけてるみたいな。
例えば数学科でいえば、代数は暗号理論に応用されています。じゃあ暗号理論入門のような講義を作ったらどうか?ということです。そこに興味を持って修行すればIBM等に難なく就職できるでしょう、実際工学部ではこういうのは普通です。
(中略)
例えば応用先として考えられる企業から人を招いてオムニバス形式で講義をしてもらう。こういう工夫はあっても良いでしょう。教育という面から考えても丸投げはどうかと思います。
日本は実践的教育どころか実践の紹介さえ行われていません。

http://d.hatena.ne.jp/MarriageTheorem/20090807/1249591306#c1249858919

統計的なデータを持っているわけではありませんが、私が大学(院)の数学科にいた頃(3年ほど前)の印象として、金融業界へ就職する数学科(院含む)の卒業生はそこそこ多かったように思います。カリキュラムとしても毎年のように「アクチュアリー数理」などという表題の講義が開設されていましたし(私は受講していなかったので内容はわかりかねますが)、現在ではアクチュアリーと数理統計学の専門家を育成するための特別な教育プログラムが設置されていたりもします。
また、「暗号理論入門」という表題ではありませんでしたが、暗号や情報セキュリティに関する概説を行う講義も定期的に行われていました。こちらは主に外部から講師を招いての講義形式だったように記憶しています(私が受講した際の講師はNTTの暗号研究者である岡本龍明氏でした)。
日本の大学の数学科におけるこの手の教育活動はまだそこまで多くはないかもしれませんが、少なくとも外部の方が想像されているよりは活発に行われているものと思います。


前者の例のように初めから対象となる業種や分野を限定した形で育成プログラムを組むのであれば、大学においてもある程度の実践的教育は可能かもしれません。そもそも、従来大学院(特に博士課程)で行われてきた通常の教育自体、「研究者」という業種の専門家育成という意味では極めて実践的なわけですし。
しかし、「数学科→アクチュアリー」のように太い人材需給のパイプが既に出来上がっている場合には専門の育成プログラムの設置が可能でも、それ以外の多彩な関連分野について個別の育成プログラムを用意するのは現実的ではありません。それら「その他の分野」については、講義で分野の概説を行うなどして学生に関心を持ってもらうようにするぐらいが精一杯で、それ以上の専門的内容を学生に教えるのは無理があるのではないでしょうか。


でも、私はそれで構わないと思っています。


そもそも大学院、特に博士課程まで進むような人というのは、勿論個人差はありますが全体的な傾向として、興味のないことはろくにやらないし出来ないけれども興味のあることには人並み外れた熱心さで突き進む種族だと思います。(逆にそういう人でもないと専門的な分野で大成するのは難しいのではないかと想像します。)そういう種族に何かを会得させたい場合、いかにその対象に興味を持たせるかという点で勝負の大半は決してしまうのですよ。
ですので、それ以降の「実践的教育」とやらは先日の記事で触れた通りインターンシップとして企業などにいるその道の専門家にお任せしてしまって、大学側としては「学生に色々な分野を紹介して興味を持たせる」、その一点に労力を集中してしまった方が総合的な育成効果が高くなるでしょうし、従来の教育体制をそこまで大きく変更しないで済むため障害も少ないだろうと考えています。その際、元コメントでご指摘のように外部から人を招いて講義してもらうというのは有力な手段と思います。
勿論、それに加えて大学の側でインターンシップを実施しやすい環境作りを行うのは必須です。学生の興味喚起とインターンシップのための環境作り、それらが先日の記事で触れた、「実践的教育」のために大学側が行える「後方支援」の主な中身です。大学は大学としてのやり方で「実践的教育」に貢献するということであって、決して丸投げなどという話ではありません。


なお、手前味噌な話ですが、私も数学の博士号を得て他分野(情報セキュリティ)に飛び込んだ人間の務めとして、各種の数学者向け研究集会などでは「数学の能力が現在の分野でいかに役立っているか」「現在の分野で見つけた数学的にも面白い題材」に重点を置いた発表を積極的に行うようにしています。
一つは、特に学生や若手数学者に向けた「実践の紹介」のため。もう一つは、私が他分野でも「数学者として」活き活きと過ごしていることを学生の人達に肌で感じてもらうためです。自分が学生だったときの印象として、数学科の(研究志望の)学生の傾向として程度の差はあれ、数学以外の分野へ行ったら数学者として終わりといった感覚があって余計他分野へ行く人が少なくなっていると感じています。実際に他分野へ来てみるとそんなことはなかったのですが、数学以外の分野を知らないとそういったことがわからないわけです。で、上記のような感覚の「反例」として、他分野で楽しくやっている数学者の姿を学生の人達に見せておくことで、少しでも他分野へのアレルギーが薄れてくれるといいなぁと願っているのです。