「公理」は結局、提唱者の世界観の表明にすぎない
「プロとアマの違いに関するたった一つの公理」という文章と、それに対する意見を読んで。
多分、「公理」という言葉から「絶対不可侵な真理」のようなニュアンスが感じ取れるというのがid:NOV1975さんの意見の源となっているように思うのですが、数学屋である私の観点で見ると、公理というのは結局のところ、それを提唱した人の世界観が文章化されたものに過ぎません。
くだけた言い方にすると「きっとこの公理は正しいんだけど、正しいことの証明はできないし、かといって他にもっと良い公理も思いつかないから、とりあえずこの公理は正しいことにして、この公理を満たす世界だけを議論の対象にするよ」ということです。
今回の例で言えば、元記事の筆者の方が議論の対象にしたい「プロ」とは、その「たった一つの公理」を満たしている人物である、ということになるわけですね。
というわけで、ユークリッド幾何の平行線公理を置き換えることで非ユークリッド幾何が誕生したという歴史に倣い、他の方々も件の「たった一つの公理」に代わるご自身なりの「公理」を表明されてみたら、また色んな世界が見えてきて面白いんじゃないかなぁと思う次第です。
で、言い出しっぺの法則に従うべく私なりに考えてみたんですが、難しいですね。id:NOV1975さんの文章とも重なりますが、昨今の「プロ」という言葉には「それを職業としている人」と「技能なり心構えなりが優れている人」という二種類の意味が混在していますので、どちらに軸足を置くかによって「公理」も変わってくるでしょうから。
そこを何とか一言で表してみるならば、「理想のプロとは、常に最善の結果を実現することのできる人」となるでしょうか。
もっとも、「結果」や「最善」が無定義語なのでこのままでは曖昧な文言ですし、生身の人間がこの条件を満たすことは不可能なんじゃないか*1というツッコミもあると思うのですが、そこはそれ、ユークリッド幾何でいうところの「幅のない直線」が概念上の理想的な存在なのと同じようなものということで。
まとめ。そうですねえ。偉大な先人の言葉を借りるなら、「そういうプロに私はなりたい」ってとこですかね。